原 ~総陰花菱~ 

総陰花菱がどうして町印になったのか、その経緯を伝える資料や伝承を失う。一説には、大正九年に青年団の団旗の紋章を図案換えすることになり、公募で鈴木正太氏の図案が一等になる。これがやがては原の町印となったのだという。花菱紋は、甲斐の武田家が戦功のあった家臣に与えたり、武田家の女性が使ったという。原村は瀬戸川の氾濫原を藤枝堤の工事によって拓いた村といわれ、武田の家臣孕石氏がその普請にあたっている。あるいはこの孕石氏と関係があるやも知れないが、現在調査中である。

栄 ~結び柏~

大正十年の町村制で、鬼岩寺字河原町と、辻(清水橋から正定寺門前小路まで)、益津字上伝馬(清水橋から正定寺真向えまで)の三地区が合併して栄区が成立した。この三つの地区の和合と繁栄を願い、繁栄永続を象徴する柏の葉を三枚で構成される「結び柏」を選んだ。また、一説には河原をその舞台にして起こった歌舞伎役者の家紋の一つであったことも選んだその理由だといわれている。

左車区 ~源氏車~

町印の源氏車は、町名に由来する。左車の町名は、建長四年、後嵯峨天皇の皇子宋尊親王が鎌倉幕府の将軍に任ぜられ、下向する途中に輿車の左の輪が破損したため、その左の輪を埋納して「左車神社」とした。
これが町名になっている。車の修理の間、親王が休息された寺を後に休息寺と呼んだが、明治八年に廃寺になった。
この休息寺の鬼瓦には源氏車が刻まれていたというから、源氏車はかなり早くから寺院紋として使われていたことがうかがえる。

町印と由来

飽波神社大祭りに参加する14町(区)には、それぞれの町印があります。町印はその町(区)を象徴するものであり、その町ならではの由来があります。ここでは町印の由来と各地区のブログを紹介します。

木町 ~キ印~

瀬涸しやすい瀬戸川ではあるが、明治三十年代までは上流の山間部で伐られた木材を、瀬戸川の流れを利用して流送していたのである。金吹橋から勝草橋までの間に二箇所、流送してきた木材を引き上げる土場があり、ここに製材業者が集中したことから木町の町名が生まれたという。その木町の<キ>を町印はデザインしている。デザインには厳密な寸法がある。ところで、この木町は上横町と呼ばれたことがあったらしい。ちなみに下横町は市部の町並を呼んだ。

小坂 ~菱小~

定かではないが、蓮華寺山と岡出山の間が昔、接続しており、ここに小さな坂があったことから小坂の地名が生まれたという。この小坂の地名が地区名となっており、町印はこの小坂の<小>を基にデザインされている。大正十一年に、小坂区は初めて屋台を作って飽波神社大祭に参加した。このとき改めて法被も作ったのだが、そのときの紺屋が菱小の町印を考案したのではないかと伝える。

上伝馬区 ~分銅紋~

鎌倉時代にはもうその存在が明らかな鬼岩寺門前市の伝統を受け継いで、上伝馬がこの門前市近くに設置されたと考えられている。上伝馬は、江戸時代には伝馬の中継ぎ、つまり問屋場と両替を行う藤枝宿の中心であった。両替には幕府が定めた分銅を使用することが義務付けられ、この幕府が定めた分銅を江戸時代には「法馬」という字をあてていた。したがって、この分銅「法馬」と上伝馬は、江戸時代以来の縁という訳で、町印には「法馬」の馬と上伝馬の馬を掛けている。

益津 ~三枡印~

益津区にこの枡を掛けていることは当然として、歌舞伎役者の市川団十郎の三枡紋を基にデザインされている。市川団十郎は、「お顔見ますが、めでとうござる、成田屋益々栄えます」という口上が定番で、この「マス・マス・栄えマス」から三枡が紋になったといわれている。益津区では入れ子になった三枡、正式には「隅立三つ入子枡」を町印にして、青年・中老・大老という全ての世代が力を合わせて大祭を施行しようという和合の心を表したと伝える。

岡出山区 ~お組~

昭和五十二年に岡出山区が初めて飽波神社大祭に参加したとき、区民に町印を募集した。数多くの中から、岡・出・山の三文字をアレンジしたこのデザインに決定した。全体の輪郭は、爽やかに明るく春を告げる桜の花びらを基にし、活気に満ちた岡出山を表している。また法被にはこの岡出山の町印を五つ合わせて桜花に見たてたデザインが施されている。

千歳区 ~千歳の松~

鍛冶町と吹屋町が、大正十年に合併して出来た千歳区は、若一王子神社境内の八幡太郎義家のお手植えの松と伝える「千歳の松」を基につけた町名である。町印もこの千歳の松から、光淋松の家紋を基に考案されている。

長楽寺区 ~蝶~

長楽寺の<長>を蝶で表す。初めは蝶が羽を広げただけのものだったが、提灯屋の松浦定次郎が現在のように整えたという。町印は備前蝶とか鎧蝶紋と呼ばれる家紋を基にしており、アゲハ蝶とタテハ蝶をデザイン化している。蝶紋は平家の家紋に使われた伝統からか、赤く染め抜かれていることが多く、長楽寺区もこれに違わず赤く町印を染め抜く。古代には同じ場所を番いて上下左右自由に飛び交う蝶を、人の霊魂と考えて尊重したが、長楽寺区では自由自在な活躍を気風とする。

白子区 ~菊一定紋~

天正十年の本能寺の変をいち早く知った家康は、堺から伊賀超えして伊勢の白子に出た。ここで、地元小川孫三の助けを得て、家康は間一髪のところを船をもって三河に渡り、無事駿府に帰還出来たという。この功をもって、小川孫三は現在地に居住を許され、新白子町と呼んだことが現在の町名になった。

五十海区 ~ご組~

五十海(いかるみ)周辺は古代には、葉梨川と朝比奈川の分流、また瀬戸川の分流などが合流する地形にあって、この川の水が氾濫する様相「怒る水」(イカルミ)が地名になっているが、近くの押し切りという地名にも川に押し切られ、氾濫したことを物語る。微高地に鎮座する原木神社と八坂神社は、ともに葉梨川の氾濫を鎮めることを願って新造に伴い、区のシンボルマークを募集した。区民から30点の応募があったが、審議の結果、五十海の五の字と海と波をアレンジした原木国男氏の作品を町印として選んだ。

市部区 ~井桁~

昭和二十五年に、市部の横町・本市部・前原が合併して屋台を曳くことになった。それまでの「横町」で曳いていた屋台は「角立四つ目紋」を町印にしていたが、このときから市部の<い>を井桁で象徴して町印とした。これは正式には「蔭隅立井筒」と呼ぶ。小山義助氏宅に保存されている横町時代の法被には、下横町と染め抜かれており、この下横町に対して上横町があったことになるが、現在の木町を上横町と呼んでいた。東海道と交差する瀬戸ノ谷街道と葉梨街道という二つのサトとヤマを結ぶ街道は、藤枝を茶と椎茸の集散地にした重要な交易路であり、上下横町はいずれも藤枝宿の一部として繁栄してきたのである。

下伝馬区 ~輪違い~

この輪違いの町印は、馬の轡(くつわ)を象徴している。下伝馬は白子の東側一部をあて上伝馬より遅れること六年、慶長十二年に上方に行く荷を継ぐ専門の伝馬として解説された。またそれより早く慶長六年に、酒井備後守忠利は自ら馬を進めて工事を下知したと伝え、下伝馬の馬と忠利の馬の轡を重ねて二重の轡を基に<輪違紋>をデザインした。