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江戸時代、田中城の鬼門を守る青山八幡宮の大祭に、藤枝宿の屋台が行列に付き従ったのが始まり。3年に一度開催される藤枝大祭りは、ほとんどの屋台が長唄・三味線・囃子方というフルメンバーによる演奏で、地踊りを披露します。質・量ともに、日本一の長唄・地踊りです。
飽波神社大祭りに参加する14町(区)には、それぞれの町印があります。町印はその町(区)を象徴するものであり、その町ならではの由来があります。ここでは町印の由来と各地区の ブログを紹介します。
原 ~総陰花菱~
総陰花菱がどうして町印になったのか、その経緯を伝える資料や伝承を失う。一説には、大正九年に青年団の団旗の紋章を図案換えすることになり、公募で鈴木正太氏の図案が一等になる。これがやがては原の町印となったのだという。花菱紋は、甲斐の武田家が戦功のあった家臣に与えたり、武田家の女性が使ったという。原村は瀬戸川の氾濫原を藤枝堤の工事によって拓いた村といわれ、武田の家臣孕石氏がその普請にあたっている。あるいはこの孕石氏と関係があるやも知れないが、現在調査中である。
瀬涸しやすい瀬戸川ではあるが、明治三十年代までは上流の山間部で伐られた木材を、瀬戸川の流れを利用して流送していたのである。金吹橋から勝草橋までの間に二箇所、流送してきた木材を引き上げる土場があり、ここに製材業者が集中したことから木町 の町名が生まれたという。その木町の<キ>を町印はデザインしている。デザインには厳密な寸法がある。ところで、この木町は上横町と呼ばれたことがあったらしい。ちなみに下横町は市部の町並を呼んだ。
栄 ~結び柏~
大正十年の町村制で、鬼岩寺字河原町と、辻(清水橋から正定寺門前小路まで)、益津字上伝馬(清水橋から正定寺真向えまで)の三地区が合併して栄区が成立した。この三つの地区の和合と繁栄を願い、繁栄永続を象徴する柏の葉を三枚で構成される「結び柏」を選んだ。また、一説には河原をその舞台にして起こった歌舞伎役者の家紋の一つであったことも選んだその理由だといわれている。
上伝馬区 ~分銅紋~
鎌倉時代にはもうその存在が明らかな鬼岩寺門前市の伝統を受け継いで、上伝馬がこの門前市近くに設置されたと考えられている。上伝馬は、江戸時代には伝馬の中継ぎ、つまり問屋場と両替を行う藤枝宿の中心であった。両替には幕府が定めた分銅を使用することが義務付けられ、この幕府が定めた分銅を江戸時代には「法馬」という字をあてていた。したがって、この分銅「法馬」と上伝馬は、江戸時代以来の縁という訳で、町印には「法馬」の馬と上伝馬の馬を掛けている。
益津 ~三枡印~
益津区にこの枡を掛けていることは当然として、歌舞伎役者の市川団十郎の三枡紋を基にデザインされている。市川団十郎は、「お顔見ますが、めでとうござる、成田屋益々栄えます」という口上が定番で、この「マス・マス・栄えマス」から三枡が紋になったといわれている。益津区では入れ子になった三枡、正式には「隅立三つ入子枡」を町印にして、青年・中老・大老という全ての世代が力を合わせて大祭を施行しようという和合の心を表したと伝える。
岡出山区 ~お組~
昭和五十二年に岡出山区が初めて飽波神社大祭に参加したとき、区民に町印を募集した。数多くの中から、岡・出・山の三文字をアレンジしたこのデザインに決定した。全体の輪郭は、爽やかに明るく春を告げる桜の花びらを基にし、活気に満ちた岡出山を表している。また法被にはこの岡出山の町印を五つ合わせて桜花に見たてたデザインが施されている。
千歳区 ~千歳の松~